追悼 水島新司さま
雲の上の人が星になってしまいました。
マンガにいちゃん、ご冥福をお祈りします。合掌
水島さんの父上の魚屋さんと親父のシャツ屋が隣り同士、
更にご実家も近かった為、親しくさせていただいてました。
水島さんご本人は、僕が物心つく前に東京へ行かれました。
なので、当時の事はよく覚えてませんが、姉はマンガを書いてもらった事を覚えてるそうです。
(姉と妹は、今でも「マンガ兄ちゃん」って言ってます・・・)
小学校の低学年の頃、水島さんの父上(通称「ぶあじいちゃん」)に、よくキャッチボールをしてもらいました。
水島さんご本人は、僕が物心つく前に東京へ行かれました。
なので、当時の事はよく覚えてませんが、姉はマンガを書いてもらった事を覚えてるそうです。
(姉と妹は、今でも「マンガ兄ちゃん」って言ってます・・・)
小学校の低学年の頃、水島さんの父上(通称「ぶあじいちゃん」)に、よくキャッチボールをしてもらいました。
ぶあじいちゃんは、僕を見つけると手招きしながら呼び止めて「キャッチボールしようて!」って、奥から大っきいグローブと年期の入ったキャッチャーミットを取り出して、
半強制的にグローブとボールを渡されました。(笑)
そして、いつも西堀の歩道でキャッチボールをしてました。
そして、いつも西堀の歩道でキャッチボールをしてました。
その時の写真です。
ぶあじいちゃんがキャッチャーで、僕がピッチャー。
ぶあじいちゃんが、いつも「もっと思いっきり投げろ!」って言ってたのを今でも思い出します。
「オレが思いっきり投げたらケガするゼ、じいちゃん・・」なんて思ってたのかも・・(笑)
懐かしい思い出でした。
ぶあじいちゃんが、いつも「もっと思いっきり投げろ!」って言ってたのを今でも思い出します。
「オレが思いっきり投げたらケガするゼ、じいちゃん・・」なんて思ってたのかも・・(笑)
懐かしい思い出でした。
そんなこんなのご近所付き合いの延長上で、水島さんはご実家に帰省される際にウチにも顔を出してくれてました。
ただご実家が引っ越しされてからは、お会いすることなく本当に「雲の上の人」となってしまいました。
昭和49年10月20日、
白新中学1年の時、ちょうど文化祭の前にお会いした時に文化祭の教室に飾ると言って目の前で描いてもらったものです。
もの凄い速度で描いてるのを目の当たりにしてビックリしたのを覚えてます。
黒・赤2色のマジックと赤のサインペンで描いてもらいましたが、赤サインペンでは、登場人物の名前が書いてありましたが経年劣化でかなり薄くなってます・・
昭和53年8月、ご実家にて(当時高校2年)
左から、ぶあじいちゃん、マンガ兄ちゃん、オレ
この時に「隆ちゃん、東京の六大学に来いよ!」って言われたのをよく覚えてます。
「なんで六大学なの?」って聞いたら、
「俺は六大学野球をよく見に行くから、そしたらいつでも会えるだろう?」だって。
残念ながら、当時の僕は大学へ行く気は全く無く、
残念ながら、当時の僕は大学へ行く気は全く無く、
「オレ頭悪いから・・」「勉強する気もないから・・」って話を濁しました。(笑)
この時サインしてもらったポスターがこちら。
1978年(昭和53年)8月 小林デパート(今の三越)で開催された「水島新司20周年展」のポスター。
それから数十年・・
2014年に飛び込んで来た 「あぶさん」連載終了の記事
記念すべき『あぶさん』完結号(2014年2月5日発売)
あぶさんの最終回の1コマ目はあぶさんとワカさんの2ショットから始まりました。
「ワカ」の字を見ただけで、しょっぱなから涙が・・・
「ワカ」の字を見ただけで、しょっぱなから涙が・・・
ぶあじいちゃんとワカばあちゃん(ご両親)の姿を思い出してしまいました。
そこに追い打ちをかけるように、あぶさんは新潟へ。
そして回想シーン、「白山」チームと「西堀」チーム
影浦安武が野球の道へ進むきっかけとなった白山対西堀の試合。
影浦安武が野球の道へ進むきっかけとなった白山対西堀の試合。
この地元愛にしばらく涙が止まりませんでした・・・
「あぶさん」以外の作品でもたくさんの「新潟」が登場する水島氏の漫画。
そこからも新潟を思う気持ちを感じます。
そこからも新潟を思う気持ちを感じます。
だからこそ、今更ながらに残念でなりません。
悔しくてなりません。
命名権による呼称ではなく「ドカベン球場」のことが・・・
最後にお会いしたのはいつだっただろう、
新潟に対する気持ちを聞きたかったな・・
マンガ兄ちゃんこと、水島新司さま
ほんとに長い間、お疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。合掌
ほんとに長い間、お疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。合掌
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